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If -another world-

There are not the people who do not think about a "if".



アクセス解析

※この文章は全てフィクションです

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2009-12-01 If there is a meaning for the death of the person(5)
2009-11-13 If there is a meaning for the death of the person(4)
2009-10-18 If there is a meaning for the death of the person(3)
2009-10-16 If there is a meaning for the death of the person(2)
2009-10-15 If there is a meaning for the death of the person(1)
2008-10-08 愛逢月ノ祭ノ音
2008-10-06 恋待月ノ夢ノ時
2008-10-01 風待月ノ恋ノ歌
2008-09-17 If Cambrian explosion happens again(57)
2008-09-16 If Cambrian explosion happens again(56)


2009-12-01 If there is a meaning for the death of the person(5)

これからすべきこと。

誰かの人生の一部を代わりに演じること。
それだけでいい、のではない。
それだけでなくてはならない。
俺は俺のために何かをしてはいけないのだ。
だって俺は死んだのだから。

だが俺はまだ、誰の代役として生まれ変わらされたのかを少しも知らされていなかった。こちらから聞くつもりはなかったが、手術をする前になっても知らされていないのはあまりにも不自然すぎる。


二か月が過ぎた。
人間の脳は全く刺激を受けなくなると数時間で機能が停止する、という話を聞いたことがある。
だから包帯をはずして目を開けたとしても、俺はもうすでに何も見なくなっているんじゃないかと思っていたが杞憂だった。視力なんてむしろ良くなっているんじゃないかとまで思った。

「元の君みたいな極度の近視じゃ、代役を務めるのには不都合だと指示があってね。一緒にレーシックも施術しておいた」

戸惑う俺にそう説明した医師は、まぶたを無理やりこじ開けて両方の眼球を確認したのち、何かをカルテに書きこんだ。
すると俺の真後ろに立っていた裁判所の人間が唐突に口を開いた。

「もう今日から一人で動いても大丈夫だな。言わなくてもわかってるとは思うがこの病棟の中から自由に出ることは許されていない。何か必要なものがあればこちらで用意する。他人に危害をくわえる為のものや法律で禁止されたもの、車や自転車など移動手段となるものでなければ大体のもの支給されるから看護師か我々に言えばいい」

「じゃあ」と俺はさっそく要求をした。「今すぐ鏡を見せろ」

裁判所の人間も医師も、そこにいる誰もが少しためらったが「いいだろう」と俺を立たせ、おそらくこの病院ができた時からある古くて大きな鏡の前まで連れて行かれた。

「覚悟して見るんだな」

覚悟?
自分が法的にとはいえ殺される以上のものがどこにある。
笑わせるな。
そう思っていた俺の口から、次の言葉は出なかった。


鏡に映っていたのは、

他でもない、俺をハメたあの上司だった。

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2009-11-13 If there is a meaning for the death of the person(4)

目を覚ましても、目を開けることはできなかった。
もし死後の世界があるとしたら、そこはこんな闇なのだろうか。

もしかして手術は失敗したのか。
だとすれば俺は死刑を選んでも同じだったんじゃないのか。

そんな考えが頭をよぎる。
そんな疑念を晴らしたのは、声だった。

「聞こえるか?」

裁判所のあの男の声だとわかるまでしばらくかかった。返事をしようにも声が出ないし、頷こうにも首も動かない。
かろうじて指先だけで意識があることを伝えるとその近くで医者が

「声を似せるためにあごの骨格や声帯を変えたので声が出るようになるまで一カ月以上かかるでしょう。虹彩と網膜の手術もしたので普通に動けるようになるまでは三カ月はかかると思ってください」

と説明していた。それが俺に向かっての言葉なのかあの男へなのかはわからないが。
意思の疎通ができないというのはこっちが思う以上に向こうにも負担があるようで、裁判所の男は二言三言何かを言ってきたが、俺が何もできないとわかっていたはずなのに苛立ったように帰ってしまった。
役所の人間は物事が自分の思い通りに進むことしか知らないし、理解もできないようだ。
そんな人間達が権力を持ち、社会を動かし、人を裁いている。
なぁ、おかしいとは思わないか?


経過を見るために何度か医者か看護婦が来るものの、基本的に病室は俺だけしかいない。
見えない、喋れない、食べられない、動けないでは誰がいてもいなくても同じだがさすがにこれはちょっと堪えた。頭が起きていて気配だけはわかるのに何もできないなんて死んでいるのとさして変わらない。
まさかこれも刑罰の一環だったんじゃないだろうな。
そう思いながら、俺はただひたすら考えていた。

俺がここに来た理由と意味を。
そして俺がこれからするべきことを。


業務上横領。
懲役3年、執行猶予5年。
初めて俺につけられた罪状と判決はそれだけだった。
上司の使い込みを発見し告発した俺が、その上司の身代わりにさせられたという、まあよくある話だ。警察の取り調べ(噂に聞いていたが本当に殴る蹴る脅すのものだった)に正直に話したがそれは上司にとって、いや、会社にとって都合のいいものではなかったため結局告訴となった。
裁判では「ここまでするか」と思うほど検察と会社が偽造、捏造、でっち上げの証拠を提出してきた。
それなりに大手の企業だったからいくらでも圧力は掛けられたんだろう。
俺を担当した国選弁護人も驚くほど無能で証拠能力の有無を争うどころか一審の判決が出てすぐに「控訴しても無駄だ」と言いきった。

だが話はこれで終わらない。

俺をハメた上司は会社以外にもヤバいとこに金を借りまくってたらしく、トンズラしようとしたところを誰かに上司の家族全員殺された。
よりにもよって俺が釈放された二日後に。
遺体の状況や手口の残忍さなどから、連日トップで報道されるほどの事件になった。
もちろん警察は俺の報復だとして重要参考人として勾留し、そのまま逮捕となりそしてこの刑が確定した。

ここからは俺の推測だが、殺害はほぼ100%会社が絡んでるはずだ。
使い込みを見抜けなかった会社はまず俺が使い込んだことにして俺を切り、その次に上司を切るつもりだったんだろう。もしかしたら上司も、使い込みを自分のせいにされたために焦って金を借りまくってしまっただけの被害者なのかもしれない。
そして俺が釈放されるのを待って、上司も処分した。

まったく、笑っちゃうほどよくある話だ。

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2009-10-18 If there is a meaning for the death of the person(3)

秘密組織の実験施設のような場所を想像してた俺は、普通の病院の前で降ろされた時は正直拍子抜けした。どうせならもっと禍々しくていかにも危ないことをやってるような雰囲気であれば覚悟も決められただろうに、こんなに長閑で時間がゆっくりと流れるような場所では毒気も抜かれてしまう。

「ここはターミナルケア(終末医療)で有名な病院だよ」

裁判所の人間は俺を病院に引き渡す手続きを済ませると、それだけ言って帰っていった。
つまりここにいる人間に未来はない。
俺にはお似合いの場所だと言いたいのか、ここで俺の顔を見られても外部に漏れる可能性は少ないと言いたいのか。
これから過去を消され、未来も奪われる俺にとってはどうでもいい話だ。だからこれから誰に改造されるのかも少しも気にならなかった。考えなかった、と言ったほうが近いかもしれない。
誰になるかよりも何をするのか。
そっちのほうが重要だからだ。
誰もいない病室で手術着に着替えさせられると、医者はこれからの手術について説明を始めた。

「整形技術により容姿はもちろん指紋、虹彩、静脈なども現在の生体認証技術では本人と判別できないレベルで変化させる。君は……持病はなかったかな」

「特にない」と答えると医者は俺をじろっとと一度見て、カルテに目を戻す。

「ならいい。あとこれから一日二回、薬を飲んでもらう。DNA鑑定を不可能にするための特別な薬だ」

さすがに遺伝子を別の人間と同じにすることはできないのは俺もわかっていたからどうするのかと思っていたが、そういうことか。

「何か質問は?」

さっきと同じように答えると、医者はカルテを一枚めくり腕時計を見て時刻を書き込んだ。

「本日12時43分。君は死亡した」

何かの手違いでもなければ自分の死亡診断書を見た人間はおそらく俺が初めてじゃないだろうか。
医者はその診断書を俺に渡さず、横にいた看護婦に「持ってって」と手渡した。

「これから麻酔を導入後、手術を開始する」

固いベッドに寝かされると、若そうにもそれなりの齢にも見える女の看護師が手際良くマスクを俺にかぶせ「ちょっとチクっとしますからね」と右腕を縛って点滴の針を刺した。

それが”俺”の最後の記憶だ。

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2009-10-16 If there is a meaning for the death of the person(2)

「法務大臣の命令書が発行された後、24時間以内に刑が執行される。執行前であれば友人や家族にも会える」

まとめればたった一行で足りることを10分以上も長々と説明した後、裁判所の人間は帰りそれに続くように弁護士も「力になれなくて済まなかった」と軽く頭を下げ、面会室を後にした。

「そんなの、いませんよ」

取り残された俺は一人呟いてしばらくその場で呆けていた。
長かった裁判が終わったから、最悪の結果になってしまったから、自分の人生の終わりが近づいているのを見せつけられたから。
そのどれも正解だ。人間はこういうとき、呆けるか笑うかのどちらかしかできない。泣きわめいたり救いを求めるのはまだ希望があるか、そう思い込んでる奴がすることだ。

「もどれ」

拘置所の職員に促され、俺は自分の独房に戻った。
許可なく横になることもできない生活ももう2年を数えると、こんなにクタクタでも肉体は自然と胡坐をかいて座るだけにとどめ、それだけで少しは疲れがとれるような仕組みに切り替わっていた。
そもそも疲れがとれたことなんてあの日……この部屋に来てからあっただろうか。
ただ動物のように毎日を生きること。それだけだ。
疲れをとるどころか疲れることさえ許されない生活なのだ。

だが、それもじきに終わる。

俺という人間はこの世に存在しなくなる。
そして俺は誰かの身代わりとして生きてくことになるのだ。
監視も制限もここに比べれば天国みたいな条件だし、何よりあの顔。
「お前がこんなことをしたばかりに……」
「あんたのせいで……」
「お兄ちゃんがいるから……」

拘置されてから一度だけ会いに来た家族もまた、あの顔だった。
これでもう事情を知る一部の人間以外、もう誰もあの裁判員たちのような顔で俺を見ることはない。たとえ家族にさえも。
それだけで救われる気がする。

こんな俺をどう思う?
悲劇だと憐れむか。
みじめだと蔑むか。
そこまでして生き長らえたいのかと笑うか。
俺にしてみればどれも同じだ。全てを失って、二年以上もこの狭い部屋で身に覚えのない罪で誰からも死を迫られ続けた俺にしか、こんな気持ちわかるわけない。

およそ一ヶ月後、友人どころか家族にも会うことなく俺の刑の執行命令書は発行された。
車に乗せられ、病院という名の俺を改造する施設に向かう途中あの裁判所の人間が付き添った。

「誰にも会わなかったそうだな。私個人としてはいい判断だと思う。どうせ君は……」

「うるさい。あんたには関係ない」

俺の態度がこの後執行される刑への恐怖のせいとでも思ったのか、奴は前と同じように癪に障る笑みを浮かべながらメガネをかけ直した。

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2009-10-15 If there is a meaning for the death of the person(1)

主文。

被告を死刑及び死刑相当刑とする。



裁判長は長々と判決理由を述べた後、短く言った。
死刑判決にはよく『主文後回し』という判決を最後に言う例がある、という話は弁護士から聞いていたのでそうだろうとは思っていたが。
一審、二審ともに出た判決はここまできても覆らなかった。
拘置所では自分が読む新聞の三面記事はほとんどが黒く塗りつぶされていたし、こうやって裁判員制度にかけられるほどだから俺の起こした(とされた)事件がそれなりに世間を騒がせたことは間違いない。
裁判員全員を端から順に眺めるとどいつもこいつも、俺が世紀の大悪人のように見下している。まるで自分たちが正義の執行者であるかのように。

「被告人。何か言いたいことは?」

裁判長の声で俺はゆっくりと立ち上がりこう言った。

「特にありません」

こうして俺の刑が確定した。



拘置所に戻るとそのまま俺と弁護士は手続きに入った。
この国で裁判員制度が始まって十数年。
「一般人が死刑判決を下すのは重すぎる」として、つい最近死刑に関して新しい法律と刑罰が制定された。
それが死刑相当刑。
死刑及び死刑相当刑を下された人間はどちらかを選択できることができるという法律だ。
その刑の内容はまだ知らされていないが、もし俺がその相当刑を選択すれば第一号だそうだ。

「どちらを選ぶ?」

裁判所から来たという人間が俺の眼の前に一枚の書類を置く。
弁護士も初めて見るものだからか、横から覗き込んでいた。
相当刑の内容はこうだ。

・戸籍からは死亡として除籍、一切の個人情報及び履歴は抹消され、新しく戸籍を持つことはできない。
・刑を執行後は、執行前の親族及び知人に執行前の人間として会うことはできない。
・執行後は全ての行動や言動は24時間監視・制限される。
・手術及び投薬を受けある人物に酷似した顔や体格、DNAに変更される。
・必要に応じ教育プログラムを随時受けなければならない。
・政府から指示された行動や言動は全て指示通りに行わなければならない。

「俺に影武者をやれってことか」

俺の質問に裁判所の人間は嫌味っぽくメガネをかけ直し「君の代わりは必要はないが誰にでもできる。だが世の中には必要なのに代わりがいない人間もいるんだよ」と嘲笑った。

「で、どちらを選ぶ?」

もう一度訊くが、もう二度と言わせるなという態度だ。
癪に障るが、俺もこれ以上こいつの顔を見ていたいとは思わない。

最後まで俺として死ぬか。
これから誰かとして生きるか。

俺の答えはもう決まっていた。あの判決後の、裁判員たちの顔を見たときから。

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2008-10-08 愛逢月ノ祭ノ音


やうやく祖国の地を踏んでから一年が過ぎた。     あの船着き場で彼を見てからもう一年が過ぎました。
澪さんが今どこで何をしてるか考えない日はないが、     あの日のことを思い出さぬ日はありませんでしたが、
決して会いに行つてはいけないと己を抑えつけながら。     もう決して会いには行くまいと心に決めておりました。

もし会いに行つてしまえば、     もしもまた会つてしまえば、
今度こそ全てを投げ出してしまうだろう。     今度こそ私は彼に気持ちを伝えてしまう。
本来ならずつと彼女を想い続けたまま     彼が独り身で待つていてくれるかもと
未だに独り身で待つこともできたはずなのに。     虫のいいことを考えてはいけなかつたのでしょう。



新しい風に混じりお囃子が聞こえてくる頃。     季節はもう、風待月を過ぎておりました。
実家の近くで祭りがあると母から便りがあつた。     ふさぎこむ私を友人が祭りに誘つてくれました。
あの別れを誓つた、澪標の立つ川辺の近くの道です。     あの川の近くだと私は連れられて初めて知りました。
私は居ても立つてもいられず、     そうだと知つていたらきつと、
妻を置いて実家への汽車に飛び乗りました。     私はここに来ることはなかつたでしょう。
本当はいけないとわかつていながらも私は     本当はいけないことだとわかつているのに、
彼女にもう一度だけ会えることを期待しました。     彼にもう一度会えるかもと期待してしまうから。

だつてそうだらう?     だつてそうでせう?

この七月は七夕月でもあり、愛逢月とも云ふのだから。


そして私は彼女と    そして私は彼と、
再び出逢うことができました。     再び出逢つてしまつたのです。
人込みの中転びそうになつた彼女の浴衣の袖を     人波に呑まれ転びそうになつた私の浴衣の袖を
偶然にも私が支えたのをきつかけに。     偶然にも彼が支えてくれたのです。

友人とはぐれてしまつたと言ふ彼女と     久しぶりに実家に帰つてきたと言ふ彼と
二人であの道を歩きました。     二人であの道を歩きました。
それほど言葉も交わさず、     ほとんど話もできないまま
ゆつくりとあの月を眺めるように。     ゆつくりとあの月に照らされながら。

不意に立ち止まり彼女は私の腕を、袖を掴んできました。     私は思わず立ち止まつて彼の腕を、袖を掴んでしまいました。
「ご存知ですか?」と彼女はようやく口を開き私を見上げる。     「ご存知ですか?」と尋ねると、彼は変わらない顔を見せる。
「この文月の別の名を」と言われ私は     「この文月の別の名を」と訊くと彼は
「七夕月や愛逢月でせう?」と答えると     「七夕月や愛逢月でせう?」と言ふので
彼女は「もう一つ、今日に相応しい名があるんですよ」と     「もう一つ、今日に相応しい名があるんですよ」と私は
そつと冠りを振つた。     首を横に振りました。

「袖合月とも言うんです」と言うと彼女は      「袖合月とも言うんです」と言うと私は
私の手を自身の浴衣の袖の中に導きました。     彼の手を私の浴衣の袖の中に招き入れました。
彼女の赤い顔が月に照らされはつきりと見えました。     これが今の私にできる精一杯の彼への気持ちでした。


その袖の中で私たちは、決して誰にも見えぬように堅く、堅く、手を握りました。




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2008-10-06 恋待月ノ夢ノ時

初めて私の名を好きだと言つてくれたのは、幼なじみでもあるかつて主人でした。
たをやかな中にも力強さがあると。
ずつと自分の傍に居てほしいと。

その時の私はまだ幼く、自分の名の意味もやうやくそこで初めて知りました。
そしてまた私はきつとその幼なじみの傍で身を尽くすのだらうと疑問もなく思つておりました。

その幼なじみが許婚と名を変える頃、私は一人の男性に心を奪われてしまいました。
彼は近いうちに勉学と仕事のため独逸へ行くと知つていたにもかかわらず、私たちの想ひは止められませんでした。

そして彼と私は結ばれることなく、三年前にとこしえの別れを誓ひました。



主人が労咳で急逝したのは先の冬のことでした。
なかなか子を宿さぬ私がやうやく授かつた幼い命も主人と供に儚くこの世から消えてしまい、私も二人の後を追おうとしたのですが死にきれませんでした。

もう一度だけ彼に会いたい。

そのたつた一つの想ひだけが私をこの世に引き止めたのです。
その願いが通じたのでせうか。
風の便りで彼が戻る事を聞き、私は居てもたつてもいられず船着場へと向かひました。
その日は一隻の船も訪れませんでしたが、私はその日からずつと通ひつめました。
来る日も来る日も、いつ来るやも知れぬ船をただ阿呆のように立ち尽くしながら待つておりました。

一週間、二週間、三週間……
年甲斐もなく指折り数えて彼を待つこの日々は、以前のような恋心を取り戻させるのに充分な時間でした。
「恋待月」と私はこの時間を名付けました。
ひと月くらいならきつと自分は待つていられる、との覚悟と
ひと月くらいできつと彼は戻つてくる、との願ひを込めて。
この時はもしかしたら人生の中で一番夢のやうな時間だつたかもしれません。

ひと月を数えるより早く、その船はやつて来ました。

港に降り立つた彼は、すぐ後ろについて船から降りようとする女性に優しく手を差し伸べておりました。

私は声を掛けることも出来ず、二人が目の前を通り過ぎるのを黙つて見ておりました。

あの日……今生の別れを告げたあの夜。
臥待の月が輝く夜道で使い果たしたと思つてゐた涙が、久しぶりに頬を伝いました。

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2008-10-01 風待月ノ恋ノ歌

次の季節を運んでくるために風は吹くのよと、澪(みお)さんはよく言つていた。

冬の終わりには生けとし生けるものを起こすやうな春の風、
春の終わりには肌を焦がさんとばかりの熱を帯びた夏の風、
夏の終わりには豊穣の実りの収穫をせかすやうな野分を呼ぶ秋の風、
秋の終わりには沁むような寒さを纏つた冬の風。

久しく雨ばかりだつたこの空に、やうやく顔を覗かせた夕陽を見上げ澪さんは笑いながら言つた。

「外国ではこの六月に結ばれた男女は幸せになれるといふのよ」

そつと私の指先に触れてきて今度は消え入るやうな声でつぶやく。

「幸せにしてくださいますか?」

夫れきり澪さんは黙つてしまつた。

とうとう私たちにも風は吹いてきた。
私たちの仲が澪さんの御両親や許婚である幼馴染に知られ、それにより澪さんは勘当寸前であること、
ようやく独逸に留学の決まつた私には澪さんを食べさせていくだけの稼ぎは当分もらえないだらうといふこと。

全てを投げ出してもよいと言つてくれた澪さんを、本当に私は全て受け止めきれるのだらうか。

迷いは顔に出て、次に口から出た。

「今の私に、澪さんを幸せにすることなどできるんでせうか?」

いつものやうに澪さんは優しく微笑んで、私の胸に顔を埋めた。

「迷われているならば、今すぐ私を捨ててください。あなたにとつての一番の航路(みち)は、きつと迷いも曇りもないものなのでせうから」

そして澪さんは肩を震わせ嗚咽した。
その名の通り、身を尽くして標になつてくれた澪さんにできることは、その言葉に従うだけなんだらう。

「すみません」

「はい」

短く答えると、澪さんは私の顔を見ずに一礼し、行つてしまつた。
よかつた、と思つた。
もし顔を見せられたら、私は澪さんを連れてきつと遠い遠いところへ連れ去つてしまっていただらう。
最後まで澪さんは正しく私を導いてくれた。


姿が見えなくなると、今度は私が泣いた。
彼女の残り香が、風に攫われてしまうまで。

涙も声も枯れると、いつの間にか空には夜の帳が落ちていた。

南の空に昇つていた臥待の月を見上げながら、私は新しい季節の風を待つていた。

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2008-09-17 If Cambrian explosion happens again(57)

「あとやらなきゃいけないのは子どもを生むだけかなぁ」と侑輝(ゆうき)君を顔の位置まで持ち上げながら呟くと、侑輝君のパパのはずの緒方さんが「ちょっ、子どもなんてまだ早いぞ。相手は誰だ?」とまるであたしの父親のように言ってきた。
病室には久しぶりに五人が集まった。母さんとあたし、緒方さん夫婦にこの間一歳になったばかりの二人の子どもの侑輝君。

「本当は侑輝君のパパがもらってくれるはずだったのに、お姉ちゃんフラれちゃったから代わりに侑輝君がもらってくれる? 年上でもいいかな?」

頬ずりしながら訊ねても、婚約者候補の彼は無邪気に「うわぁ、あぁ」と声を上げて笑っているだけだった。さすがにプロポーズはちょっと早かったかな。
代わりに焦ってたのは緒方さん。結婚式の時もそうだったけど、どうやら緒方さんはあたしも母さんも本気で彼を好きだったと思っているらしく、後でこっそり「気持ちは嬉しかったけど、ごめん」と耳打ちしてきた。「冗談だよ」と否定しても良かったけどそのままの方が面白そうだからしてない。今だって「いや、別に僕はふったとかじゃなくて、」と挙動不審になっている。
母さんも緒方さんの奥さんもそれを見ながら笑っていた。

こんな世界でも、たとえ未来が見えなくても人間は笑えるんだ。

そもそも未来って何?

スノーボールアースってのがやってきて人類が絶滅しても、あたしたちはその先に新しく生まれてくるかもしれない人類の祖先なのかもしれないのだ。
どんなに違った姿や形でも、それはきっとあたしたちの未来だよね?



四億八千万年後。

「……に全地球の凍結にほぼ近い氷河期が訪れました。その直前まで地球を支配したのは人間と呼ばれる我々に近い生物だったのは間違いないでしょう」

発言を終えた一人が座ると、周りから大きなざわめきが漏れる。
そこにいるのは人間と呼ぶにはかなり体格が大きく全身にたくさんの体毛を生やした生物たち。服を着て、帽子のようなものをかぶり、何人かは眼鏡をかけている。
そこは議場のような場所で、机や椅子が映像を映し出す壇上に向かうように設置されていた。今いる人数は500人にも満たないが、その4倍は入れるであろう広さの建築物の中だ。

「では次です」と一人が手を挙げると、箱に入れられたただの白い紙の映像が映し出された。「これは185時間前に地底建築物から発見されたもので、復元作業の結果、次の映像が出てきました」

今まで化石でしか見ることのなかった「人間」の鮮明な姿である、裸で眠る志穂。その画像は、そこにいる全員を黙らせるに値するものだった。

「これは現在の女であり、当時の『人間』は体毛が極度に薄く寒さに対応できなかったと考えられ、先ほどの論と一致します。そして、」

次の画像は灯と湯太の眠る姿だった。

「この画像の紙を鑑定にかけた結果およそ五億年前のものであることが解りました。これは我々が知っている『ねこ』であり、彼らはこの五億年前からずっと姿を変えていない、生きた化石である証明です。これは推測ですが『人間』の次に地球を支配した生物は猫だったのかもしれません。五億年前にも現在と同じような寒冷化により『人間』は絶滅し、それをきっかけに急激な進化、いわゆる二度目の大いなる爆発が起こりました。しかし『ねこ』は進化せず、そのまま生き続けた。もしかしたら我々は『ねこ』とは違い『人間』と同様に淘汰されるべき生き物なのかもしれません」

そこにいる全員が、ため息を漏らす。だが彼は言葉を続ける。

「我々もまた新たな進化を迎えるべき時なのではないでしょうか?」

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2008-09-16 If Cambrian explosion happens again(56)

母さんにその手紙を渡すと、懐かしむようにその文章を指でなぞる。ロクに字も書けないほど右手が動かないくせに、何度も、いつまでも。
それを見て、自分でもほんと理由は分からないんだけど、母さんは再婚はしないと思った。母さんの気持ちは今でもずっと父さんにしか向けられていなくて、だから父さんがずっと海の中にいたのなら母さんの気持もずっとそこにあったんだろう。
それは本当に不幸なんだろうか。

「司法解剖が済み次第、こちらに運んでもらう予定です。遅くても明後日までには到着するんじゃないかと」

緒方さんの言ったとおりその二日後、あたしは初めて父さんと対面する。当然のことながら写真と全く同じ姿で、なんだかSF映画でも見ているような気分だった。映画だったらここでいきなり動きだしたりするんだろうけど、冷凍睡眠なんて実際にあるわけじゃないし、今はもう誰もそんな奇跡を望んじゃいない。
もうこれで充分。
母さんの笑顔はそう言っていた。


誰かと一緒にいられる時間なんて、人生の中ではほんの少しなのかもしれない。
あたしが学校を卒業すると同時に緒方さんは結婚することになった。相手は母さんじゃなくて、あたしも全然知らない人だ。あたしの卒業を待ってそうしようとは相手の人と話していたらしく、ちゃっかりやることはやっていたことに驚きと多少なりの嫉妬は隠せなかったので結婚式のスピーチで「結婚できなかったらあたしか母さんが緒方さんをもらってあげようるつもりだったのに」といって困らせてやった。
ずっと彼女がいたことを隠してたんだから、それくらいいいよね。

そしてこの日を最後に、およそ15年間続いた送迎も終わりを迎える。そりゃ、これからずっと就職しても送迎されるなんて迷惑を通り越して嫌がらせのレベルだ。
あたしは学校の紹介で、大手のカメラメーカーの研究室に就職した。写真を含む資料の超長期保存や判読不能な資料の復元を研究するところで、まぁより専門的になったものの学校でやってたことと変わらない。
本当なら大学に進むという選択肢もあったのだけど、あたしは焦っていた。
ちょうど一年前に、地磁気はもう3年前の15%にまで減少していたのだから。
そしてニュースでもどこでも「スノーボールアース」という言葉を聞かない日はなくなっていた。もしそのスノーボールアースが起こったとしても、このジオフロントで暮らす限りは人類が絶滅する可能性はないと国連の人も緒方さんも言っていたけど、本当にそうだとは信じきれなかった。そしてその不安は的中した。
あたしが二十歳になる前に地磁気は反転し、海流は今までとは全く違った動きを見せた。あと1年で地上の8割は凍りつく。今まですべてではないにしろ地上での収穫に頼ってきた食料の問題は勿論、新種の病気が増えるだろうと世界中のジオフロントでパニックが起こり、戒厳令が敷かれ仕事以外の外出は届け出なければいけなくなった。

とある日、残業で遅くまで残っていたあたしは研究室で一人になれる時間を見つけてこっそり写真を数枚現像し、不活性ガスを充填した密封容器に入れた。まだ研究途中ではあるけれど理論上は半永久的に、少なくとも5000年は変わらずに保持し続けられるはず。

きっと人間は、少なくとも”今の人間”にはおそらく未来はない。そんな終わりかけの生き物の一人であるあたしができること、やるべきこと、やりたいと思うことはこれだけだった。

先頭 表紙


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